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[竹千代日記]
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気候とか・・・

暑いのか寒いのかよくわからないここのところのお天気。
噴火や地震もやたら多し、なんだかなぁ・・って感じですね。

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こいつもやる気がなさそうです。
おぅソコの人間、ちょっとなぜろや、って感じですね。
っていうか、そこ食卓なんですけどね。。。
片付けるからどっかいってくれませんかね?
毛だらけだし・・

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ガラステーブルの下から募金の羽を発見します。

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とりたいがガラスに阻まれます!
かなしいかな透明なガラス板という概念を理解しかねるようです・・・

ちょっとおちょくってみましょう。w

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どんくさいくせに、なんかあぶなっかしいことをしています・・・w
落ちてもしらんぞ。

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家の外壁にこーいうのが張り付いているのが捕りたくてしかたないようなのですが・・

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こいつがベランダに出たのをしらずに網戸をしめると自力であけようともがいたうえにセミみたいに網戸にしがみつくのでボロボロになります。
「ペット対応」の網戸ってのがあったので、ちょっと高い(っていうか1枚2000円とかする!)のですが買ってみました。
ベランダに出入りするたびに網戸をあけてやるのも面倒なので、網戸専用のネコドアってのも買ってみた。
このペット対応網戸、丈夫なのはいいけどメチャクチャ固い・・・・
普通の道具だと押し込むのに一苦労・・・たぶん女の人とかだと無理です!

アーバンギャルドのライブにいってきました

土曜、いってきました。

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梅田のシャングリラです。
アーバンギャルドのライブは去年の秋以来?
今回は「ミオヤマザキ」さんとの対バンです。
いちおう、CDとかを事前に偶然手に入れていたので予習はすんでいました。
ぶっちゃけ、まぁアーバンもそうなのですが、それ以上にコレはムスメとみるような内容じゃないだろ、みたいな際どい楽曲ばっかりで。(笑)

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会場限定配布ということになっている新譜のミニアルバムも2種ともゲットです。

ライブ、トップはミオヤマザキさん。
音源で聴くより実際のライブでは爆音系でなかなか聴かせますね。

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次はアーバン。
今回はレコ発ってこともあるので新曲が多かったです。
「コインロッカー・ベイビーズ」も「原爆の恋」もキャッチャーで、でも歌詞はなかなか攻め込んでいる感じで私は好きですね。
メジャーで出せる中身かどうかは別として。
あと「いちご売れ」はヤバいですね・・・w
曲きいて思い出したけどジャケットの絵が硫黄島の旗をパロって、さらに前作の「鬱くしい国」で当初の案にあった会田誠の「美しい旗」をミックスした感じ、「原爆の恋」なんて歌詞が「TIN↑POM」が起こしてた反核がらみのハプニングにちょっと連想できるような、そういえば三者どっかでたぶんつながってるよなー、とか。
もう一枚のほうのジャケットは「少女は二度死ぬ」も髣髴させるような。
色物に見えて、意外と一貫して主張が変わらないんだけど表現方法がポップなのが彼らのいいところ・・・だと私は思う。
まぁツアー中だから詳細はおたのしみってことで。
今はアメリカにいってるんだっけ?何かのイベントに出るそうですね。

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帰りの高速のSAで見かけた違法電波取締のポスター。
いや、鬼太郎、お前の妖怪アンテナから出ている電波も充分違法だとおもうぞ?有楽庁でちゃんとした無線機買おうぜw

自然観察

日曜、たまには運動せな、と思ったので家の近所をぷらぷらウォーキング。

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うん、、、姫路って山にいくと普通に鹿が出るんだよね・・・
「捕獲したあと処理して放置」・・・いかんよね。ちゃんと持って帰ろうね・・・

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山中にて古墳発見!発見ってまぁ昔からあるし、このあたりの人間ならだれでもしってるし子供のころはよくもぐりこんで遊んだもんだけど・・・w

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もっとでかいのもあるw
これはきっとエライ人の墓だったんだろうなぁ。
ちなみにこのあたりだけでも俺が知ってるだけでも古墳は7つか8つある。
俺のご先祖様はきっとコキ使われて石を運ばされるほうだったんだろうが。
姫路は他にもやたらと古墳がある。昔は栄えていたんだろう。
全国の古墳の半分以上は関西にあって、2割以上は兵庫県にあるような話を聞いたこともあるな。

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別に古墳を見に来たわけじゃなくて、送電鉄塔の巡回路ぞいに散歩していたんですけどね・・w

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お天気の日に、送電鉄塔の結界の下から空を見上げてぼーっとすると、なんか雑念が晴れます。

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鉄塔は一本それぞれまったく細部が違います。
同じに見えるのはあなたの心に邪念があるからです。
この2つも全く違う形をしているし、それは立地や前後の鉄塔との力学的なバランス、そういうものがちゃんとあるのです。

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てなことをいいながら歩いていると、やっぱり居ました・・
「鹿」です。真昼間の県道沿いでも普通に餌を食べています。

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何を食ってるのかと思ったのですが「筍」かな?
ちなみにこのあたりの山の「筍」は普通に名産品ですので、きっと地主の人は頭を抱えているとおもいます。
畑とかも荒らすみたいですね。
見た目はカワイイけど、案外「害獣」らしい。最近は人間も含めた天敵が減って、こいつらも増える一方なんだとか・・・

こんな感じ。まぁ堂々としたもんですわ。

しかも二匹おったし・・・w

仕事にて・・・

神戸にいってきた。

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元町駅の前にある「レッドロック」ってお店でローストビーフ丼。
メガ盛りで有名。食べても食べてもお肉が減らない・・・「並み」でもよかったかな・・・w
ちなみに「大盛り」でも1000円です。

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駅前で見かけた怪しい看板。
これって・・・「宇宙動物エルバッキー」の団体と違うんかい?
興味あるけど怖くていけないわ!
ドルバッキーに断罪されたい今日この頃。

番外編その2

前回、遠縁で第二次世界大戦で戦死された海軍軍人の人の話をしたら割といろんな人からレスをもらった。
ちなみに他に戦争にいった人で一番身近な人といえば母方の祖父も出征している。この人は生きて帰ってきているのだが。

私は小さい頃、母方の祖母のごく近所に住んでいた。
父方の祖父母は健在で、年に数回ちょっと遠方の実家にいったりしていたのだが、母方は親戚も少なく、私は年子の妹と二人でよく母が留守のときに預けられていたのだ。
うんと小さい頃でも「誰にでも(死なない限りは)両親がいて、父や母にもそのまた両親がいる。それがお祖父さんお祖母さんだ」程度の事は理解はしていた。
なので祖母と母に「(母方の)おじいさんはどういう人なのか?今なぜいないのか?」を聞いたことがあるのだが、そのとき二人とも「戦争にいって死んでしまった」としか答えてくれなかったのだ。
そのわりには「遺影」も「位牌」もないし「墓」もない。
お祖母さんは京都の、元は(たぶん身分は低いが)お侍さんの家の出身だ、と聞かされていて、そういう仏事には人並以上に熱心な人で法事も毎月やっていて(お坊さんが来て、お昼は必ず出前のお寿司とかだったから楽しみにしていたのだ)年に2回は私らもつれて京都の実家のお墓詣りに行くレベルの人だった。
そのわりには、祖父が死んだなら死んだで仏壇に軍人姿でも祀っていそうなもんだが、なんせ幼児すぎたので「戦争で死んだ」のなら居ないもんだと思っていた。
ちなみに僕が産まれたのは昭和42年。恐ろしいことにまだ「第二次世界大戦が終わってから22年しかたっていない」時代で、姫路の臨海地区なんか防空壕だの高射砲陣地の跡だのって戦争遺跡がごろごろしてたりしていたのだ。
傷痍軍人とか、いわゆる朝鮮人労働者の人とかも割といっぱい身近に住んでいたしね。
戦争ってもんはまだあの頃は身近にあったんだろうな。
私が小学生になるころのいわゆる高度成長の最後あたりでそういうもん一切がっさい綺麗に全部なくなったけどな。

で、まぁ幼少のみぎりはそういうことで、それ以上は追及しなかったし、小学生くらいになると「死ぬ以外にも親が片方とかいない理由」ってのがこの世にはあり、それは「聞いていいことじゃない」くらいの事はぼんやり理解し始めた。
なにせ「戦争で死んだ」「だけどお墓とかがない」というのは、祖母や母が私に語らない相応の理由がきっとあるんだろうと。
そしてぶっちゃけ、私の中ではそれほど重要なことでもなかったてのも事実だ。

時は流れて私が25くらいの時に祖母が長患いの末になくなった。
小さい頃かわいがってくれた祖母がしなびていく姿を見守るのは悲しかったが、わりと病院と勤め先が近所だったりしたのでちょくちょく見舞いには行っていたのだが、最後まで上記の一件について語ることはなかった。
聞いてみようかと思ったこともあるのだが、病人に面倒くさい話をふるのもどうかと思うしな。
そんなうちにとうとう聞く機会もなくなった。最後に祖母が私に語ったのは若くして死んだ母の姉と、その飼い猫に関する話(おそらく頭が混乱していたのだろう。あきらかに両者とも存命のムードで)であった。

葬儀のあと、もう住む人がいなくなる母の実家を片付けながら、ふと母に「そういえば祖父の遺品らしいものとか一切ないやん?」と何気に聞いてみたのだ。
「戦争で死んだんやろ?」って。
そうすると、事もあろうに母は「あんたのお祖父さんは戦争では死んでない」というではないか。
え?と聞き返すと「あんたのお祖父さんはアタシが産まれる前に戦争にいって、そのまま戦争が終わるまで外国におって、従軍看護婦と駆け落ちしたんや」といきなり衝撃の事実を聞かされたのである。
「アタシは産まれてから一回も顔も見たことない。写真もないしどんな人かも知らん。しんだアタシの姉ちゃんは知ったんやろけどな」と。
おいおい、俺はそんな話、いままで一回も聞いたことないよ。
その時は葬儀の後片付けだのなんだので忙しく、それ以上つっこんでは聞かなかった。
それに、どっちにしても亡くなった人のことだ。祖母は死んでしまい聞くこともできないし母はあきらかに思い出したくもない感じだから今聞くことじゃないなぁ、と。

ところが、そうこうしているうちに2年もたたずに今度は母が急逝してしまったのだ。
全く予期もしていなかったことなので、それこそ家業の整理だので大混乱・・・
やっと葬儀が落ち着いた頃に、弔問客の中に見たことのない老人がいることに気が付いた。
その人の娘であろう女性と一緒に焼香を済ませて帰って行ったその人を見送った父に「あれ、誰や?」って聞くと「アレはお前の祖父さんや」と。つまり母の父にあたる人だと。
「はい?!死んだんちゃうんか!?」って聞くと「ワシも今日、初めて会ったんや。本人が身元をそう自分でいうたからそうやろ」と。
つまり、さっきの爺さんは俺の祖父さんで、付添のオバさんは俺の腹違いの叔母さんってことか?
ウチのオヤジは、そんな大事なことを相手が帰ってから言うかな?とりあえず俺を呼ぼうとかそういう発想はあらへんのか??

そのあと、母の遺産(というほどたいしたものはないが住んでいる家の名義とか)を整理するために戸籍謄本とかをいろいろ集めて気が付いたことがある。
私の祖父はそもそもいつどこで産まれたとかも、戸籍謄本をみて初めてしったのだが、なんと明治37年(1904年)に産まれていたことがわかった。
私の母が昭和16年(1941年)に産まれたはずだから、ちょっとまて37歳のときの子か?
お祖母さんが29歳くらいに産んだ計算になるから、けっこう歳の差夫婦でしかも晩婚だったのか?
そもそも、1941年といえば太平洋戦争が始まった年、まだ日本が勝った勝ったって言っている時期。いくらなんでも37歳のオッサンを徴兵するもんか?戦争に負け始めたもっと後ならいざしらず。
もしかして職業軍人だったのか???
と、まぁいろんなことを考えたりもしたのだが、結局は考えてもわからんし、その直後わたしも結婚したりいろんなことがあってクッソ忙しくなって結局はうやむやになっていたのだ。
戸籍謄本をとった結果、わりかし近所に住んでいるということもわかったので会おうと思えば会えたんだろうが、前述したとおり「従軍看護婦と駆け落ちした」というのはどうも本当らしく終戦後すぐに祖母と離婚したうえにその直後には母の腹違いの姉妹が産まれていたようで・・・
数人の子供もできてまったく別の家庭を持っていたらしく、いくら孫だからって私が今更あって何を話すことがあるんだろう?とか、相手に気を使うような、ぶっちゃけ親しみというよりは私個人は恨みはないが恐らくは苦労したのではないかと思う祖母や母の事から何か無礼なことをいってしまいそうな、そういうためらいもあって、気も進まず。
(ちなみに戦後、復員してからの再婚相手はなんと14歳も下!従軍看護婦と駆け落ちしてた!ってのが真実ならアンタ戦争いって何やってたんや!?)

で、20年くらい忘却していたのだが、割と最近、その人のことをひょんな事から思い出したのだ。
というのは、全然しらなかったのだが結構長生きしたらしいその人も母の没後5年くらいしてから亡くなったらしく、そのことを共通の知人である実家の近所のある人から聞いたのだ。
で、前回にアップした海軍軍人の人の件もあったので、別口で軍歴をやはり取り寄せてみていたのだ。
そちらは陸軍だから本籍地の県庁の年金関係の部署が窓口になる。ちなみに京都の人だった。

ざっと略歴をいうと大正13年に20歳で徴兵される。そして陸軍病院の衛生兵になったらしい。そのときはいわゆる大正デモクラシーの時代で2年で普通に徴兵がおわり社会にもどったらしい。 そして、昭和13年、日中戦争が始まると同時に現役はなれて10年ぶりに「後備役召集」として、野戦病院の衛生兵として軍隊にとられたらしい。
このとき34歳になっているので、負け戦の時期ならともかく、ちょっとロートルじゃないのか?って思ったのだが、とられた兵科が「野戦病院 自動車課」となっていたのだ。
そう、、ここは想像なのだが、この人は「自動車の運転、または整備」ができたんじゃないだろうか?当時はそれはおそらくは貴重な技術だったんだろう。
当時も母の実家がある場所に住んでたらしいので、ここは国策企業である某大企業(「華麗なる一族」のモデルのあそこな)の社宅とかが戦時中からやたらある場所だから、もしかしたらそこでそういう仕事をしていたのかもしれないね。
これもまた想像だが、昭和初期、大企業に勤めていて自動車の運転とかそういう(当時にしては)特殊技能がある・・結構はぶりのいいプレイボーイだったのかもしれないな・・・
そして昭和13年に中国戦線にいって、昭和15年くらいに1年くらい帰ってきて、太平洋戦争がはじまったら野戦病院の転戦についていって、そのままシンガポールにいって戦争に負けるまでずっとそこにいて、しかも捕虜かなにかになって日本に帰ってきたのは昭和22年らしい。
母の姉が昭和13年に産まれてて、母が昭和16年に産まれているんだから、すげえつじつまが合う・・し、太平洋戦争のさなかにシンガポールでどういう人間ドラマがあったのかも何かとあったんだろうなーって思う。
まぁ当事者(祖母さんとか)から見たら怒髪天って世界だろし、俺もそれはどうかと思うのだが・・・・
いや、、俺はそういうことは賛成はしないよ?でも頭脳警察の歌じゃないけど「美談でかざられるくらいなら新聞の片隅で恥をさらしたほうがまだましさ」みたいな泥臭い事があるってのが戦争ってもんだったのかもね・・?


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Last-modified: 2022-08-24 (水) 09:37:48